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灌仏会大摂心に参加して (13) K.E さん

 定力がついてくると、短い睡眠時間でも坐れるようになるので、摂心の日が経つにつれ、五時間、四時間、三時間と、睡眠時間を短くして夜坐をしました。
 以前全く眠らずに坐ってみたことがありましたが、次の日の朝の一炷目、二炷目と定力が抜けてしまっていて、姿勢を維持することもうまく出来ないような状態でしたので、私の場合最低二時間は寝ておかないと次の日に支障が出るようです。
 
 初心の方が、無理して夜坐をする必要はありません。開枕(就寝)の時間になったら、ゆっくり休んでいただいてかまいません。
 夜坐よりも、次の日の坐禅の方が重要ですので、無理をし過ぎればいいというものではありませんし、それぞれの方の健康の具合、体力、気力もありますので、ここでは夜座はしなければならないものではありません。体を壊して普段の仕事に差支えが出るといったこともあってはなりません。
 
 無理をし過ぎること、真面目過ぎることもまた、自分の枠を強め、妨げになります。
 しかしながら、摂心においては、法を求めるならば多少の無理を試みることもまた必要です。

 私自身は、悟りを求めて遮二無二坐るような人のみが、摂心に参加すべきであるとは思っていません。
 たとえ年に一度であっても、世の中で普通に仕事をしている人が坐りに来る、そういったことであってもいいと思っています。我々が生きる日常、社会もまた、厳しい状況にあるように思います。
 
 そうした日常を離れ、無言の内に、溢れるほどの様々な情報の刺激や、社会の中での自分の位置によって忘れている、或いは忘れようとしている、本当の自分の本心、深く隠された自分の感情と直面する。
 それは必ずしも楽なことではありませんが、それによって本来自由そのものだった自分に、生きていく上でまとわりついた、余計な夾雑物を捨てていくことになります。

 
 摂心という言葉には、本来の自己に親しむ、という意味があります。
 摂心において、悟りや見性といった明確な体験がなくても、それだけ本来の自己に親しんだことになります。
 実際のところ、自分の限界まで摂心を坐り抜き、どれほど深い安らぎ、落ち着きを感じたとしても、自意識の根が切れない内は、日常に戻ってしまえば、三日も経てばいつもの日常の自分に戻ってしまいます。
 例えるなら、泥水が静かな状況で上澄みと沈殿物に分かれていたものが、また揺さぶられて泥水に戻ってしまうようなものです。

 それでも参禪を継続していく中で、悟りや見性といった体験がなくても、あらゆるものが変わっていっていることに、何かの機会に気がつくことでしょう。
 その違いはやはり決定的なものであると言わざるを得ません。
 私は日本に生まれてきたことに殆ど何の感情も持ってはいませんでしたが、禪が日本に今もなお法を伝えるものであることに、深い敬意と感謝の念を抱かざるを得ません。

                                              <つづく>


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Author:風轍
「朽木學道舎ー風と森の学校」は、自己と宇宙の探求の場ーほんらいすべての人の心に内在している叡知に目覚め、根源的な自由と平和を生きようとする、あらゆる人びとのために開かれた、小さな茅葺きの学校です。

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