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灌仏会大摂心に参加して (23) K.E さん

 その日の夕方、日が暮れる前に、私も帰路の途に着きました。
 普段だと、摂心が終わったその日の内に車で帰ると、車の中では視野の隅々まで意識が行き渡るのを感じ、非常にゆっくりと景色は流れ、体は奇妙なまでに軽く、カーステレオをつけると音が体に沁み込んでいくように感じ、大きく開かれた感覚、坐禪による意識の変化を感じながら帰ったはずですが、今回9日間滞在して、今回の摂心は自分にとって、8日目にして摂心が終わったような、そんな感じがありました。

 坐禅で体験したことや、気づきといったものは、日常に戻ると確かにあったはずなのに、夢のようにあったかどうかさえ分からない、掴めないものに感じられる時があります。たしかにそれは通常の認識の作用で掴まえられるようなものではなく、認識の作用が静まっている時に、理解できるものであるように思います。
 そうした禪と日常の分離といったものもまた、坐禅を続けていく内に無くなっていくことでしょう。禪は特殊な体験をするためにあるものではなく、ただ当たり前のことが当たり前に理解できるようになる、そのようなものだと思います。 

 坐禪を続けていく程に、私は禪を知らず、法を知らないと感じます。法、ダルマ、存在の事実は、人間の自意識の一切の介在を許さない、と老師は言いますが、確かに自分というものが掴む事が出来るようなものではないことが分かります。
 参禪する動機や理由というものは、言葉としてある程度整理されて自分の中にあったわけですが、最近は自分が何に向かって参じているのか、坐っているのか、それすら分からないような気がすることがあります。それはたしかに自分というものが掴んだり、介在出来るようなものではないからです。

 ですので、正しい指導者の元に参禪するということは、参禅するにあたってまず第一に、何よりも重要なことであると思います。指導者は印可を受けた師家であることが必須でしょう。そうでなければ、やらないほうが無難です。
 
 師家は道案内です。実際に自分の足で道を歩むのは参禪者その人であり、禪を教えるものは何より坐禪そのものです。実際に坐ることの他にありません。
 私も数多くの書物の中に真実の影を探しましたが、数千数万の真理に関する書物を読んでも、ただ一炷の坐禅の代わりになるものではないと感じます。


                                                    <つづく>


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Author:風轍
「朽木學道舎ー風と森の学校」は、自己と宇宙の探求の場ーほんらいすべての人の心に内在している叡知に目覚め、根源的な自由と平和を生きようとする、あらゆる人びとのために開かれた、小さな茅葺きの学校です。

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